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日中韓共同製作映画「3つの港の物語」によせて

▲テーマソング「一期一会」
作詞:土岐千尋/作曲:榎田竜路
編曲・演奏:真荷舟/ストリングスアレンジ:横谷 基/唄:土岐千尋

日中韓共同製作映画「3つの港の物語」によせて

これは北京電影学院と韓国フィルム・アカデミー、それに日本映画学校と、三ヵ国の映画学校が協力して作った国際合作映画で一時間四〇分の大作である。私の知る限り、学生映画で三ヵ国合作の長篇劇映画というのはちょっと前例がないのではなかろうか。

横濱学生映画祭で培われた友情

製作の母体となったのは毎年横浜で行われている横濱学生映画祭である。その常連の参加校であるこの三つの映画学校で、学生たちによる合作映画を作ることはできないか、ということが、何年か話し合われていた。はじめはそれは多分に空想的な話だったが、たまたま二〇〇九年が横浜開港一五〇年であり、横浜市にその記念映画の製作を援助したいという意向があることを知ってその夢が具体化した。

北京電影学院は張芸謀や陳凱歌など中国映画の今を背負う巨匠たちを輩出した名門校であり、多分、規模において世界最大の国立の映画学校である。韓国フィルムアカデミーは逆に極端な少数精鋭主義の小規模校だが、やはり準国立の映画委員会の下にあって、その豊富な公的資金によって全学生が最新の機材を使いこなせるなど、徹底したエリート主義の教育をやって卒業生たちが続々と相次いで優秀な作品を生んで、韓国映画の世代交代のひとつの原動力となった。日本映画学校としては正に、相手にとって不足はない、というところである。

スポンサーとしての横浜市から示された条件は港についての映画、ということだった。会議を重ねて、日本は横浜、中国は青島、韓国は仁川を舞台にした短編のドラマ作品を作り、これでオムニバスの長篇にしようということになった。日本はストーリーを公募し、中国と韓国には、それぞれ学校側で選んだ学生の監督たちに自由にシナリオをかいてもらった。学生作品といっても、学生たちは実際にはそれぞれ学校のカリキュラムで手いっぱいである。実際には卒業制作で監督として注目された学生が卒業後の第一作として脚本と監督に当り、在学中のスタッフたちと一緒に作るというかたちになった。教師がプロデューサーとして全体を指導した。

映画作りという方法で3国の若者が交信

さて、こういうやり方でどういう映画が出来るか。出発点では見当もつかない。その見当もつかないところにわれわれは賭けた。日本と中国と韓国と、この複雑で厳しい歴史で結ばれ、近年ようやくまっとうな友情が成立つようになった東アジアの三ヵ国の青年たちが、実力的に平等と目される映画づくりという方法で互いの心と芸を示し合う。それだけで何かワクワクするではないか。さあ、どういうメッセージや心意気がそこに交信されるだろうか。

第一話、北京電影学院の「Fish&Bird」は、青島の近くの海辺に住む漁師の老人とその息子と孫の話である。老人の海への愛着と、青島に移住しようとしている息子夫婦への不満、そして孫への愛情がリリカルに描かれる。最後に老人が孤島で危機におちいったところで、孫が大事にしていた(日本発の)ヒーロー人形がアッと驚くような現れ方をするのであるが、このラストの機知が面白く、また日本の大衆文化がどれほど深く中国にも浸透しているかを示していて興味深い。

第二話、韓国フィルムアカデミーの「聾魚と月」は悲痛なドラマである。負傷で精神に障害を負った兄のめんどうをみながら仁川の港のほとりで零細な食堂をやっている女の話である。その厳しい生活の日々を描く正統リアリズムの演出演技はプロとしても立派なもので胸が痛くなる。兄がなくなって妹は、兄がよく生きたまま齧った生簀の魚を海に放して供養にする。月の冴えたその海の波の上を亡くなった兄が解放されたように小躍りしながら月に向かってゆく。最初に仁川港での日本人旅行者と韓国人との言葉の通じないなりの友情の物語であるはずだったのが、どたん場で急に変更になったのだが、そんな急ぎの仕事とは思えない見事な出来で、なかなかやる、と唸る。日本とも中国とも関係のない話だが、痛烈なまでに厳しい人生を見つめ、なおかつ最後には言いようのない愛のぬくもりが残る。

第三話の日本篇は横浜を扱った「桟橋」。「連戦連勝」と書いてもらうと仕合せになれると噂されている老人がいて、そのいわれを若い女性の雑誌記者がさぐる。卒業生の高崎浩が書いて応募して当選した原案のストーリーは軽快なものだったのだが、前年の卒業制作作品の「八月の軽い豚」で認められて監督に起用された渡辺紘文がこれを二十回近くも書き直すうちに、じつに堂々として本格的な反戦ドラマに変貌した。戦争中、教師として教え子たちを戦場に送り出した者の自己批判が、かつてない激しさ、生まじめさで述べられていて感動的である。日本側は誰も、中国篇が日本発のヒーロー人形の愛着のこもった作品に仕上がるとは知らないでこれを作っていたはずであるが、結果として日中両作品の間には興味深く重要なメッセージの交換が成り立ったと思う。これこそ、日中韓三国の学生映画合作が巧まずして生んだ成果である。いや、巧まずしてというのはちょっと違う。じつはなんらかの、互いに呼び合い、またそれをためらうモラルの上での力学が作用するようになるだろうということは秘かに期待していたのだから。韓国篇だけは一見それと無関係のようであるが、あえて日本にも中国にも目もくれず、一筋にわが道を行って高い完成度に達しているあたりはこの国らしくて天晴れと言いたい。

作品全体が港のような役割だ

三つの作品、共通点はあるか。それこそ巧まずして生じた共通点はある。自国の現実を学生らしい生まじめさでしっかり見据えようとしていること、一見暗い内容だが、いずれも希望を暗示するような表現がじつによく考えぬかれた表現で盛り込まれていること、などであるが、表面的な見た目で言っても、いずれも海辺の物語で、海の表現が印象的である。日本と中国と韓国は海で結ばれている隣人同士であり、意外なほど共通の人間的な感情が全体を貫いている。

港の歴史や繁栄については三篇とも何も語っていないが、港の役割のひとつは異文化との交流であり交歓である。その意味ではこの作品自体が映画を志す三国の若者たちが一堂に会する港のような役割りを果たしている。ここにつどった日中韓の若者たちはもう、昔のマドロスもののようなドンチャン騒ぎはもう誰もやらない。そのかわり、みんな思慮深く、他者の心への理解に富んでいる。港のありかたも変ったのだ。

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運営者写真

佐藤 忠男

日本映画学校校長  映画評論家。1930年生まれ。1950年頃から雑誌「キネマ旬報」「思想の科学」などに映画論を発表する。以後、映画を中心に演劇、文学、大衆文化、教育などの広い分野で100冊を超える著作を発表している。 《主な受賞暦》1957年キネマ旬報賞/1986年山路ふみ子映画文化賞/1995年毎日出版文化賞「日本映画史」/1996年芸術選奨文部科学大臣賞「日本映画史」/紫綬褒章受賞/2002年勲四等旭日小綬賞受賞/韓国文化勲章/フランス文化勲章受章

地域

神奈川県横浜市

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「3つの港の物語」

横濱学生映画祭